宮浦 晋哉|キュレーター

月島に掛かる膨大な生地
はじまりは1枚の写真からの衝撃

ー あまり見かけない生地のセットアップを着ていますね。どこの産地の生地ですか?

宮浦:これは友人の古着屋で買ったやつ(笑)。

ー 違うんですか……。てっきりそうなのかと。

宮浦:そういえば、この前のフリースタイルダンジョン見た(編注:放送日の翌日か翌々日に会うと必ず聞かれます)?  やっぱり、モンスター変わってもR-指定はいてほしかったよねー。

ー たしかに。でもFORKが入ったので、個人的には楽しみです。さて、セコリ荘にはたくさんの生地が吊られていますが、どのくらいあるんですか?

宮浦:ハンガーに掛かっている生地は300点ほどあって、掛かってない生地を合わせると1000点くらいあるかな。二階にもたくさん生地があるよ。セコリ荘は、「人と素材、人と人が出会う場所」というコンセプトで、日本各地の産地が誇る生地や技術と、ファッションデザイナーをつないできた。だから、新作の生地も続々届いてる。

ー 1000点! この物量に、これまでセコリ荘が産地と築き上げてきた関係性が表れているように感じます。もともと服が好きでこの仕事についたんですか?

宮浦:服はもともと好き。高校時代に、将来どうしようかと漠然と考えていたんだけど、高校卒業と同時に職業を決めるなんて僕には無理だった(笑)。だから、好きなことを仕事にするために大学の学部を決めなくちゃいけないなと。

ー 進学先は?

宮浦:服とまったく関係のない理系の学部(笑)。いろいろあって、親に反対されちゃったから。だから、夜間に服飾系の学校にダブルスクールして、そこで出会った人のつながりから「繊維研究会」へ入ったりした。そのあと、大学も辞めて親をあきれさせてしまい、結局服飾系の大学へ編入したんだよね。

ー 結果として、服の道に進めたんですね。

宮浦:でも、入ったら入ったで、ファッション学校特有の“チャラチャラした感じ”が、僕には合わなくて……。学校にはぜんぜん友達がいなかったから、唯一の居場所は図書館だった。そこで「繊研新聞」を読んで、写真やインタビューをノートに貼って集めてた。そしたらあるとき、縫製工場の写真が載っててすごく感動した。「服をつくっているのって職人たちじゃん。マジでかっこいいじゃん」って。あまりの衝撃に、ちょうど求人をしていた目黒にある縫製工場に、「お金いらないんで働かせてください!」と頼み込みに行ったくらい。ここで、3年間働いた。

ー いきなり工場に! 工場の機械ってかっこいいですもんね。

宮浦:あとは山縣良和さん(「writtenafterwards」デザイナー)主宰の「ここのがっこう」にも通った。そこで感じたのは、デザイナー志望の人たちの、つくることに対するストイックな姿勢が僕とはぜんぜん違うということ。僕はどちらかと言うと、当時から「ニコ動」や「Ustream」を見て、好きなものをリサーチして情報収集するほうが好きだった。だから、自分はデザイナーではなく彼らをサポートする役のほうが向いていると思ったんだよね。で、そこからイギリスに2年ほど留学した。

ー 今度はいきなりイギリスに! どういう目的だったんですか?

宮浦:僕自身もやりたいことがまだはっきりとは見えてなかったし、日本では働きたい企業をひとつも見つけられなかった。考えは浅いんだけれど、それなら一度海外に身を置こうという感じかな。そのための費用として企業からスポンサーを得て、そのほかに出会い系の“さくら”のバイトをして生活費を貯めていた。“さくら”をやって、終わったら縫製工場へ行って。当時は、その繰り返しの毎日でほぼ寝てないかも。

ー さくら? すべての男の敵である、あの“さくら”でしょうか?

宮浦:そう(笑)。自分が送ったメッセージを、相手は16文字まで無料で見れるので、短い文字数で男をその気にさせる力を身につけたよ。良く言えばね。「ヨーカドーの前にいるんですけど」とか言ってた。男心がわかるのは、結局男でしょ。当時は、罪悪感なくやってたけど、まあ、人に話せることではないよね。

ー「ヨーカドー」というリアリティ(笑)。そちらの道に路線変更しなくてひと安心です。