宇賀那 健一|映画監督

憤りと熱量をぶち込んで作った
映画『発狂』

ー デビューされてからは、どんな感じだったんですか?

宇賀那:デビューが17歳の時。その後は大学へ通いながら、役者を続けていた。10代後半から20代前半は、とにかく悶々としていたな。「なんでオーディションで落ちるんだろう」とか、「もっとこういう映画に出たい!」という気持ちが強くて。今になって思えば自分の技術が足りなかっただけだし、ただの欲の塊だなあって思うけど。

ー 理想と現実のギャップに苦しめられていたんですね。

宇賀那:そんな悶々とした中、『着信アリFinal』という映画に出演したら、他の出演メンバーも熱い想いを持ったやつらばかりだった。そこで、僕が監督と脚本を担当して、ほかのメンバーがキャストやスタッフをしてくれて、みんなの想いをぶち込んで作ったのが『発狂』というホラーコメディ。

ー 好きな作品に出られないなら、いっそ作ってしまえと。しかも、ホラーコメディだったんですね。

宇賀那:当時、いわゆる“泣ける映画”がヒットしていたんだけど、泣ける物事を詰め込み過ぎて、そりゃねぇだろって展開の映画ばっかりだった。不幸な出来事が起こりまくって、役者はずっと泣いてるの。そんな映画は嫌だってずっと思っていた。だったら、怖いことが起こり過ぎて笑えちゃうホラーコメディの方が、よっぽど健全でエンターテイメント。そんな怒りを『発狂』にぶち込んだ。幼少期に母親にホラーばかり見せられていた影響も、間違いなくあるけど(笑)。

参照:http://hakkyou.is-mine.net/movie/index.html

ー 俳優をされていたとはいえ、勢いでできるものなんですか?

宇賀那:そもそも何が準備できてないとかもわかっていなくて(笑)。右も左も分からないくせに、造詣やCGを盛り込みまくってやりたいようにやった。すごく大変だったんだけど、楽しかった思い出しかない。そりゃあ、あれだけ好き勝手にやってたら、文句の一つもないよ。

ー その作品で賞を取られたんですよね。

宇賀那:当時は、国内の映画祭に応募する人ばかりだったから、思い切って海外の映画祭に出したら、なんと入選!その後の作品が続けて「カンヌ国際映画祭」のショートフィルムコーナーに入選したり、「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」で、僕の特集上映してもらったりと続いていった。この作品が、僕の映画人生の礎であることは間違いない。

ー 衝動の力は凄まじいですね。大前提として、熱量や努力もあるとは思いますが、ここまでの結果に繋がるなんて。

宇賀那:もちろん、映画祭や賞という結果も大事だと思うけど、なにより監督や脚本を通じて違う角度から映画に携わることができたことが大きい。今まで以上に、映画の魅力に飲み込まれていったから。それが、良いことなのか悪いことなのかは分からないけど(笑)。

ー なんだかものすごく現実離れした人生にも聞こえるんですが、大学生としてはどんな過ごし方をされていたんですか?

宇賀那:『発狂』を監督した当時は、映画制作や俳優活動をしながら大学に通っていた。僕は朝が強いので、みんなが休みがちな1・2限は友達の分を代返してあげて、3・4限の時間は、映画を観に行きたかったから友達に任せてうまいことやっていたよ。

ー 映画の世界と大学の生活は、真逆なイメージがするのですが、いっそ辞めて集中しようとは思われなかったんですか?

宇賀那:辞めても、仕事が沢山あるわけじゃないからさ(笑)。でも、青山ブックセンター」で映画の本を読んだり、「ユーロスペース」や「イメージフォーラム」で映画を観たりしていたよ。学校のおかげで、渋谷まで定期で来れるというのも大きかった。

ー ある意味、大学の4年間を有意義に使われていたということですね。卒業してからは、どこかに就職されたんですか?

宇賀那:大学を卒業してからは、就職もせずあいかわらず映画を作ったりしていたけど、何年も動かしていた大きな映画が頓挫してしまって……。その時は本当に絶望した。今までの何年間はなんだったんだろうって。何もする気がおきなくて腐っていたよ。それでこのままじゃダメだと思ったんだけど、すぐに他の映画を動かす気にもならなくて、一旦企業に就職した。

ー 会社勤めをしながら、創作活動をするのは大変ではなかったですか?

宇賀那:企業勤めとはいえ、自分的には「数字出したら帰っていいんでしょ!」っていうスタンスだった(笑)。だから、頑張って働いて、定時(17:35)に毎日帰宅。ひたすら映画を観たり、脚本を書き溜めたりしていたよ。その傍らで、「メントスレインボー」のシリーズCMに出演していたり、「ジョンズゲリラ」というバンドのPVを撮ったりもしていた。

ー すごい熱量ですね! そして、その後に起業されたんですよね。

宇賀那:何年も懸けていた映画が流れてしまった大きな理由の一つに、製作委員会に入っていなかったということがある。結局、監督だけだと映画全体をコントロールできないと学んで、映画を出資するための法人が欲しかったんだ。大学も経営学部だったし、なんとかなるだろうって(笑)。そして、「株式会社Vandalism」を作った。